「美由紀か、私だ。K……梶原(かじわら)だ」

朝の7時頃、ランニングでもしようかと思っていた美由紀のもとへ電話があった。

「あ、はい、美由紀です。どうしたんですかこんな時間から」

しばらくの沈黙。

 

D地区がE地区というものを作りA地区を乗っ取ろうとしている件は知っているか」

「はい」

「和泉の名も知っているか……」

「……はい」

「言っておこう。和泉陵駕(わいずみ りょうが)だ、お前を捨てた父親だよ」

「はい……」

美由紀は下唇を噛んだ。幼い頃に母と別れた父親だ。

A地区は見せしめに潰される予定のようだ」

「私達が何とか!」

「いやいいんだ。お前なら地下女子ボクサーから抜け出して普通のボクサーになれる。

A地区は潰れる」

「いえ、手は引きません。私の大事なA地区。それに養成学校ですから」

「管理を任されているのが私だからな、お前はあきれて手を引くだろうよ」

いつものK教員より元気が無い。

「何で手を引くんですか? A地区を守りましょうよ」

「……和泉と私は過去に結婚していた時期が有ってな」

「……っっ!」

「驚かしたか? つまり一時期、私はお前の義理の母だった。

だから面倒を見ていただけの事。そしてお前がたまたま強く、世界をまたにかける

選手になっただけの事。弱小選手でもやはり目はかけていたろうよ。

まあ私は和泉から関係をきられた。険悪なムードで、私を潰すという意味もあるのだろう」

A地区を潰すという……のはな」

美由紀は黙り込んだ。頭の整理がつかない。

「和泉はお前とお前の母をひどく憎んでいる。命の危険さえもある。だからもうA地区に来るな」

「えっ」

「今日あたりにでもD地区、いや、D地区からの精鋭を集められ作られたE地区団体が

A地区を見せしめに潰しに来る。なあ美由紀?」

「は、はい?」

「お前は地上へ出て普通のボクサーになれ。A地区が潰れてE地区に全てを奪われる前に

A地区のデータからお前の記録を抹消する。チャンスは今だけだ。裏から表の選手になれ」

美由紀は30秒ほど考えた後に言った。

「嫌です」

「この先、E地区で和泉に支配されたまま選手をするのか?」

「いえ、A地区を守ります」

 

 

「……悲惨な未来しか選択の余地は無いぞ」

「だとしても戦います」

「お前に惜しみなく協力してくれる小百合も今はいない、勝ち目は無いぞ」

「だとしても……」

「もう終わるんだよ……私はお前と二度と会わない覚悟で電話をした。短い期間だったが

お前の母になれて良かった。それだけは言いたかった。お前が憎んでいる父親と並んでのうのうと歩いた

馬鹿だったがどうか許してくれ」

電話は一方的に切れた。電話の最後に確かにKは泣いていた。

だが美由紀に迷いは無かった。

 

 

 

A地区養成学校の朝礼に現れたのは「バイオハザード三姉妹」という三人姉妹だった。

リングの上で演説をしていたKを殴り倒し一人がマイクを手に持つ。

「はい、小山田 絹子(おやまだ きぬこ)と言う、キミ達はD地区を知っているだろうか?」

いきなりKが殴り倒され乱入して来た三人の女に会場はザワついている。

D地区は新たにE地区を作った。それにあたって君たちをE地区へ移動させようと思う、勿論

D地区はとてもバイオレンスだが、新しいE地区はA地区からD地区、全ての要素を取り込んだ

内容の地区にしたい。よって、君たちがある日突然、有刺鉄線がロープ代わりにされたようなリングで

戦う事も無い。今までどおりだ。ただ、『来て欲しい』ではなく『来い』だ。我々E地区のメンバーは

これからA地区へ本格的な破壊活動を行う。E地区へ来る者は優遇しよう。A地区に残ろうとする者は

悪の鉄槌を受けるだろう。生きていられるかどうかも保証しかねる」

突然の話にザワつきは止まらない。

「ダーク・トランキュリティ作戦。私達のボスはそう呼んでいる。『黒い静寂』。つまり、どす黒い悪だと

自ら認めている。そりゃそうだ。これから僕達がしようとしているのは略奪だもの。A地区から人間を

すっぱ抜いてE地区へ無理矢理移動させる。黒い悪だと知った上でのアクションだ。あえて我々は

正義ぶらない」

ザワついている館内に竹刀を馬身と床に叩きつける音が突然響いて皆黙った。

竹刀を叩きつけたのは特攻服を着た女性だった。

「次女の小山田 鉄江(おやまだ てつえ)だ。妹の話をちゃんと聞けよなテメー達! 文句あるならこっちまで

来いよ?」

「まあまあ鉄江。あ、私は小山田 奈美鉄(おやまだ なみてつ)です。長女です。えと、武力行使になる前に

皆さん移動した方が良いと思いまーす、外にマイクロバスを置いてあるので皆さん、さっさと移動して

A地区はもう捨ててしまいましょう〜」

Kが唸りながら体を起こそうとする。殴られたショックはダメージ的に大きいらしく、なかなか立ち上がれない。

丸山が「大丈夫ですか」と手を貸す。

「あ、うちのボスはそのKって人が嫌いみたいなんで助けると同在なんですよ」

絹子が丸山目掛けて突進するとボディを素手で打った。

「ごぶぉっ!」

丸山のボディに拳が深く突き刺さり、腹を抑えたまま丸山はゴロゴロと悶絶しながら転がった。

そして

「ぐぼぉっ! がはっ、がはっ!」と嘔吐を始めた。

絹子はマイク越しにヤレヤレといった様子で言う」

「まあこのように武力行使が出来るわけで、皆さんにお願いしますって言ってるわけじゃない。来ないと潰すって

事なんですよ、皆さん心の準備は出来ました?」

「おい、丸山!」

Kが丸山の背中をさする。

「丸山! 丸山!」

「ちょっと演説を中断しますね」

絹子はマイクのスイッチを切ると、悶絶している丸山の腹を更に乱暴に蹴った。

何ども何ども蹴り、丸山は血を吐きながら最後にはグッタリしてしまった。

そして絹子はマイクのスイッチを入れる。

「さあ、皆さん移動の時間です。身支度を済ませて下さいね」

 

「おいマイク持ってる女!」

突然大声が響き、皆の視線が会場の入口へ向けられる。

大声を出したのはデンコ、銭林佃子(ぜにばやしでんこ)だった。

「たまたま遊びに来てて良かった。A地区は守るのだ。武力行使で来るなら武力で対抗するだけだ!」

デンコはそう言い切った。この養成学校にいる頃は美由紀に恋心を抱いて玉砕したり

小柄で頼りな下げな風貌をしていたが、今ではA地区での有名選手になるまで成長している。

その姿に養成学校の時に感じた頼りなさは無くなっていた。

 

絹子は落ち着いた様子でマイクに向かってゆっくりと言う。

「では逆らった人間の末路を見ていただきましょう、ボクとそこの大口を叩いている

ちっさい女性、試合をして力の差を皆さんに見てもらいたいと思います」

 

3・デンコVS絹子

「丸山さん、大丈夫?」

デンコは丸山に声をかける。

「はい、普段からK教員にぶたれているからでしょうか、何とか動けます。セコンドは任せて下さい!」

「よっしゃ、じゃあ絹子という僕っ娘女を叩き潰してやるのだ」

デンコはトップレスにグローブ、ブルマ、シューズ全てが赤。

絹子はそれら全てが青だ。

Kは放送石に座ると少しだけ祈った。

悲惨な結果だけは避けられますようにと。

そしてゴングを鳴らす。

 

マウスピースを口に含んだ二人はリングの中央までダッシュで出てきた。

D地区にいたからかな? ぼくにとってこのリング上は安全すぎる。君にとってはこれが普通なのかい? デンコ君」

「普通なのだ」

「じゃあヌルいね。君、有刺鉄線のロープで戦ったことある?」

「べ、別にそんな事するする必要ないのだ」

「それがヌルいんだよ」

「何っ!」

デンコは右フックを打つ。それを絹子はしっかりと片腕でガードした。

「ぼくたちは治安の悪い街で育ったからね。きみを再起不能にしてしまう前に言っておくけど」

「なっ、何なのだ?」

「ぼくのオッパイにバイオハザードのマークの刺青がある。おねーちゃん達にも入ってる」

「それがどうしたのだ?」

「ぼくたちは小さい頃、刺青彫師の所へ行って、実験台にこのマークを彫られて

ひとり250円をもらったんだ。それで一週間は食いつなげたよ」

「……」

「きみみたいにヌクヌク育ってない。毎日が生きるか死ぬかだったから」

デンコは頭を左右に振った。同情してはいけない。引け目を持ってはいけない。

ただ純粋にボクシングをすれば良い。

だが自分の置かれた立場は絹子達に比べるとよっぽど安全で生死まで考える必要は無かったと

考えるとなにやら絹子の体がひとまわり大きくなった気がした。

「きみは飼い慣らされて太ったブタだ。ぼくたちの人生に比べると、ままごとなんだよ」

バシッ!

絹子の右フックがデンコの頬へ炸裂した。

「うぶっ……」

デンコは倒れそうになりながら、トットッとつんのめった。

「ぼくらは竹刀でぶたれて何発まで立っていられるかって仕事もしたことあるよ、きみはあるかい?

コンビニの店員ほど楽じゃないよ。何せ痛みに耐えるんだから。痛みで屈服するかされるかのやりとり。

もういちど聞くけど君はそんな環境だった事ってあるかい? こんな事でもしなきゃぼくたちは生きれなかった

んだよ」

もう一発、フックがデンコの頬をえぐった。

「げびゅっ!」

デンコが口から大量の唾液を吐き出してあおむけにダウンした。

D地区だったら追撃ルールってのがあって、ダウンした相手にさらに攻撃出来るんだけどそれは勘弁してあげる」

「あ……ありがとうね……」

デンコはゆっくりと立ち上がる。D地区というものの恐怖に精神が支配されようとしている。

はたから見ても気持ちの面でデンコが押されているのはめに見えてわかる。

がしゅっ! がしゅっ! と、ただ絹子のパンチがデンコを打ちのめしているだけの展開になっている。

 

「君たちは応援しないのかい?」

試合を見守る養成学校の生徒達に振り向き、絹子が大声を出す。

「応援しないよねぇ、だってこのデンコって子を応援してデンコが負けたら

きっとそういう連中を僕達は許さないだろうからね」

 

会場はシーンとしている。皆がリングの上を見ずに俯いている。

絹子は好きなだけデンコを殴った。パンチを打つというより殴るという表現の方がしっくりくる。

「もう見たくない人がいたら、さっさとマイクロバスに荷物をまとめて乗っておいたらいいよ、ぼくは

このままこのデンコって子を『破壊』するまで殴るのを止めないからさ」

デンコはロープぎわでひたすら殴られ、血まみれのマウスピースを吐き出した。血が多く付いているそれは

ベチャンと音がしたにもかかわらずみずみずしい跳ね方は見せず、足元にぶちゅっとへばりついた。

そしてすぐに失禁を始める。ブルマに黒い染みが出来たかと思うとそのままトトトトと漏れていき

足元のマウスピースの横に小さな小さな水たまりを作った。

「やっぱり人間って壊れるのが早いんだな。もう壊してしまおうかそれともゆっくりとまだ遊んだほうがいいのか。ねえ

お姉ちゃん達、どうしたら良いと思う?」

絹子に奈美鉄は答えた。

「今回は目的があるからもう壊していいわよ、フフッ」

「わかったよ、もうぼくはこのおもちゃを壊す」

絹子はデンコへボディを打ち込む。

「ごぱぁっ!」

血の塊を吐いてグッタリとするデンコ。

(私はただのお嬢様だったのだ。D地区に比べたらA地区は、おままごとでしかないのかもしれないのだ……)

もう食らうパンチは痛くない。気が遠くなる。

その時、頭の中にふとある思い出が浮かんだ。

 

4・零の思い出

 

デンコは岸上零と戦った。

零は盲目のボクサーで冴えた感を使って見事に試合をする。

最終的にデンコが勝った。

その晩、二人は屋上で話をした。

「なんか勝ってしまって申し訳ないというか……その、零ちゃんは目が見えないのでハンデに思えてしまうのだ」

声の聞こえる方―――デンコの顔を零はしばらく見つめていた。

そして

「全てが実力だから」と笑顔を見せた。

「目、もう治らないのか?」

「治らないって……言われた」

「そ、そか」

「やだぁ、何、同情してるんですか?」

「あ、ごめんごめん、ごめんなのだ」

「優しいんですね」

「いやぁ、優しくなんてないのだ。そういう障害を持った人にハンデを持っていると

決めつける自分なんて人間出来てないのだ」

「そんなに深く考えなくてもいいのに」

「なんだろうなー、考えちゃうんだよなー」

「……そういえばこの前、初恋の人に会ってきたんですよ」

「へー、それはロマンなのだ」

「大きくなってたのかなぁ?」

「ん?」

「だって見えないから。片目が見えた頃の彼の顔しか無いから」

「うん」

「だから……私だけ取り残されてるみたいで……」

デンコは黙っていたが、零がポロッと涙を見せたのをしっかりと見ていた。

「デンコさんは私に勝った。先輩になっちゃったわけだから引っ張っていってもらわないとね」

「あ、ああ! 任せるのだ!」

「背負ってくれますか?」

「せ、背負ってやるのだ!」

 

 

「……良かった。頼りにしてます、私、部屋に戻りますね」

「ああ、わかったのだ」

「それからデンコさん」

「ん?」

「私が泣いた事、誰にも言わないで下さいね♪」

デンコは黙っていたが、誰にも言うまいと心に誓っていた。

 

5・DENKO

 

デンコは血みどろで失禁しながらも立ち続けている。

うつろな目をしていたが、今はしっかりと絹子を見つめている。

(私は大きなものを背負っていたのだ)

 

「ぬるま湯につかっていた分のツケなので壊れて下さい」

絹子はそう言ってフィニッシュの体制に入っていた。

が、途中で動きを止める。

「ちょっとデンコさん、何か空気が変わりましたね」

デンコは肩で息をしながら黙っている。

「厄介ですね。あなた、何か大きなものを背負ってるんだね」

「まあね……」

「しかしもう盛り返すのは無理でしょう、ちょっとその気迫を出すのが遅かったよね」

絹子が襲いかかる。

デンコは思い切り地面を踏みしめ腰をひねる。

さらにパンチを打ち、その手もひねる。

相乗効果か何なのか、パンチは加速して絹子のボディへめり込んだ。

「あぐふっ……」

絹子の口から唾液にまみれたマウスピースが吐き出される。

(和泉様に聞いた事が有った……A地区の連中の成長性!)

ダメージを全身に感じながら絹子は倒れまいと両足を踏ん張る。

「やりますねぇ」

絹子は腹を抑えながら少しリングの上を歩く。改めてデンコの全身をまじまじと見ているようだ。

「やりますが、よしんば私を倒したとしましょう」

「ん?」

「このバイオハザード三姉妹の絹子を倒したとするんです」

「あ、ああ」

「まだ私には姉が二人いる。一人でどこまで頑張れるんですか?」

「いや、まだ絹子、お前を倒していないのだが」

「いや、きっと、ぼくは今と同じパンチを出されたら立っている自信が無いよ」

「降参するのか?」

「まさか。ぼくだって命懸けで戦いますよ」

「じゃあ続きをするのだ。私はA地区を守るのだ!」

「向う見ずな方だ、まあ今のパンチは偶然だったとしよう、続けるかい?」

「勿論!」

「もう君に今の技は出せない、じゃあ続けようじゃないか」

絹子はふりかぶって思い切りデンコの顔面へパンチを当てようとした。

どう見てももうボロボロで、この一撃でデンコは立ち上がれないだろう。

「さようなら、短い短い時間を楽しくさせてくれてありがとう」

絹子はパンチを放った。間違いなくデンコにヒットする。

(回転、回転、回転!)

 

ドキャッ!

ストレートがデンコのボディに当たるが、その瞬間デンコは体をひねる。

極限までひねるとそのエネルギーは腕まで行ったのか、腕を回転させる。

 

ダメージは完全にデンコの体から出ていった。

「完全にダメージを消してやったのだ!」

「……」

自分の打ったパンチを流されてしまった絹子は完全に黙り込んだ。

「……君達の代表として青空美由紀がいると聞いたんだが」

「ん?」

A地区の……君たちはこんな短期間で成長してしまうものなのかい?」

「……なのだ」

「まいったな」

絹子はグローブで頭をポリポリと掻く。

「試合はまだ終わってないから最後の打ち合いをする前に言っておく」

「何なのだ?」

「ぼくは、不幸で過酷な人生を送った人間が本当に強い人間かと思っていた」

「お前は強いのだ」

「弱いとは思わないさ、僕は強くなければならない。E地区からの特攻隊として、バイオハザード三姉妹の

切り込み隊として和泉様に貢献しなければならない」

そう言って絹子は溜息をついた。

「行くよ、ぼくは君を倒す為に、その為にパンチを打たなければならない、行くぞっ!」

絹子はそう言い終わるとデンコに襲かかる。

デンコは落ち着いて体をねじった。

そしてまず腰を回転させ、それから生まれたエネルギーを右腕に宿らせ、今度は右腕を回転させてストレートを打つ。