《祭》

「おい」

ボーッと座り込んでいる香奈に一之瀬が話しかける。

「あっ?はい」

「今放送がかかったの聞いた?」

「え?・・・」

「悩みすぎだって、そろそろ試合が始まるって放送。ギャラリーも多いよ」

「ええっ・・・」

香奈は立ち上がって、テントからコッソリ顔を出す。

人がたくさんいる。当たり前ではあるが。

怖くなってすぐに顔を引っ込めた。

「人がいっぱいです・・・」

「ああ、そのほうが燃えるんじゃない?」一之瀬は気楽に笑って見せた。

「結局、覚悟は決まりませんでした・・・」

そう言うと香奈は落ち込んだ様子で椅子に座った。

「こっち向いてみな?」

一之瀬の声に、香奈は顔を向ける。

「何ですか?・・・」

「うん」

「?」

「いや、いい顔してるよ、何とかなるんじゃない?」

「え・・・」

動揺していると、校内放送が。

 

―それでは午後のプログラム、女子生徒二人によるボクシングを開始しますー

 

「用意しなくちゃ。おもちゃのグローブだなこれ、黄色くてヘンなロゴが入ってる。それにバンテージも無いし。学校側も適当だねぇ、ほい」

一之瀬がふかふかのボクシンググローブを渡した。

「格好も体操服にブルマですよ・・・」

「まあ本格的に殴り合いして怪我でもされたら困るってことだろうね」

「ええ・・・そうでしょうね」

香奈が立ち上がると

「大事なもの。ほいっ」

一之瀬が、香奈の口にマウスピースを突っ込んできた。

「んっ」香奈は口の中をモゴモゴしてマウスピースの位置を調整する。

 

「失礼しまーす」

唐突に一人の女子生徒が香奈のテントに入ってきた。

「放送部でーす。あ、スタンバイOKですね、では香奈さんから入場って事で」

一方的に話すと放送部の女子はすぐにテントから出て行った。

そしてすぐに音楽が大音量で流れる。

「テレビ業界かよ」呆れたように一之瀬は言った。

流れている曲は香奈自身が決めた入場曲。

曲を決めるときは楽しんでいたのに、こういう場に立たされてみるとその大きな音一つ一つが香奈の神経を不快に刺激する。

そして全身から汗がドッと噴出すのを感じた。

「なんも考えるな、っていっても無理か。出るよ!」一之瀬はタオルを首にフワッとかけた。

(よ・・・よし)

香奈はテントから出た。

一瞬日差しに目が眩んだが、すぐに目は慣れ、大勢のギャラリーが目に入る。

香奈はリングだけを見て歩き続けた。

流れている曲は大好きな曲なのだが、別に心を奮い立たせる効果は少なくとも無い。

きっとこのまま歩くのを止めたら怖くて足が震えてその場に座り込んでしまうだろう。香奈はそれだけを感じ、歩いた。

階段を昇り、ロープの間から体を滑り込ませてリングの上へ立った。

高い。

そしてたくさんの視線。

香奈が限界かもしれないと感じていると

「結構声援飛んでたじゃん」と一之瀬が言った。

「あ・・・そうなんですか・・・聞こえませんでした」

「まあじきに、そういうのも判るようになるよ」

そう言って一之瀬は香奈の両肩をポンポンと叩いた。

そうして香奈が深呼吸でもしようかと思った矢先

 

流れている曲が変わった。

 

そして向かい側のテントから、静子と信夫が出てきた。

静香はまわりに両手を挙げてアピールしながら歩いてくる。

「場数踏んでるねぇ」一之瀬は嫌味無く呟いた。

ひたすら・・・

ひたすら香奈は来て欲しくなかった。

静香ではない、試合に。

信夫に。

 

ふと気がつくと、いつの間にか、香奈は静子とリング中央で、レフリーの女子生徒に注意事項を聞かされている所だった。

香奈は眼鏡を当たり前だが取っていた。美人だ。

そしてニヤッと香奈に笑いかける。

(負けたら約束は約束ってことで)

静子はそういう目をしていた。

(負ける気しかしない・・・なんでだろ)

そう思いながら香奈は静子から目線を逸らした。

「それじゃ、お互いのコーナーに戻ってください」

頭が混乱状態の香奈は、それだけは理解出来た。自分のコーナーへ戻る。

「よっしゃ、じゃ最初は打たれて相手の攻撃をよーく知らなきゃね」一之瀬はそう言った。

「ガードですか?」

香奈が質問した瞬間、ゴングが鳴った。

香奈は急いで構えてリング中央に出た。

後ろから「うーん、ガードは無理かな?」と一之瀬の声が聞こえた。

(えっ?)

香奈がその言葉に動揺した瞬間、静子のストレートがいきなり飛んできた。

(いつの間に目の前に・・・)

ガッ!と音がして、香奈の目の前が一瞬暗くなる。

(食らった!)

ガッ!ガッ!ガッ!

連続でパンチを食らっているらしい。

(私、何されてるんだろう)

香奈は意識が少し遠くなるのを感じた。

(このまま倒れて終わりか・・・)

香奈は最初の時点から戦う覇気を失っていた。

(何もかもゼロ・・・0・・・0・・・0・・・)

「はっ!」

静子の締まった声がすると、フィニッシュブローに当たるであろう、強烈な正拳突きが香奈の顔面にめり込んだ。

「ぐぅっ・・・」さすがに香奈にもそれはこたえた。これが実践空手の力なのだろう。

しかしダウンはまぬがれ、必死にガードを固めて耐えた。

「ふぅ」と一呼吸して静子が間合いを取った。

 

香奈からはどうしても突っ込めない。

頭の中はゼロだらけだ。

ゼロ、ゼロ、ゼロ。

その時

 

 

「香奈ちゃーん!」

 

(ん?)

香奈の耳に聞き覚えのある声が。

「香奈ちゃーん!カレー売れてるよ!そっちも頑張って!」

(あ・・・カレー・・・カレー・・・)

「やっちゃえ!試合終わったらカレーおごるよ!」

 

さきほどの自分のクラスでの出来事を思い出した

 

「カレー王か・・・」香奈はフッと笑った。

頭に広がるゼロが1という数字に変わる。

そして感じた。

ゼロと1の間の距離は、でかい。

(負けてカレーでも食べるか・・・)

 

 

 

「あ、俺も後で食うわ、」

 

香奈は声の方へ視線を向けた。

自分ではその存在を忘れようとしていた人

信夫

 

リングのまわりから笑いが起こる。

 

「・・・スキだらけでいいの?」

静子が、あえて攻撃をせずに話しかけてきた。

(しまった!また食らうかも!)

香奈はすぐにファイティングポーズをとる。

・・・

(あれ?)香奈はすぐにパンチが飛んでくると思っていたが、そうでもなかった。

しかし、静子はどこか人を憎んでいるような目つきをしている。

 

リングの上はひと時の冷戦状態に入っているらしい。二人は見詰め合っている。

「ゴホっ!」

香奈がむせると、口から血が飛んだ。

(なんか口の中が気持ち悪いと思ったら、切れてる・・・)

周りから見ると加奈の純白だったマウスピースにほんのり血が滲んでいるのが見える。

一瞬、加奈は自分が血まみれでノックアウトされている自分の姿を脳裏に浮かべた。

だがほんの少し前の自分とは違う。

加奈はあまり絶望感を感じなかった。

血の味。

 

(それもまた一興・・・かな)

加奈は意識していなかったが、ニヤリと笑った。

静子は少し驚いた顔をした。そして思わず戦闘体制のポーズに入った。

「ちょっと私のパンチくらい過ぎた?何?笑っちゃって!」少し挙動不審に静子が叫んだ。

 

 

「・・・さんざん色々なモノに振り回されてきた」今度は加奈から語りかける。

「何よそれ・・・」

「静子さん、あなたも私をさんざん揺さぶってきたけど・・・」

「それがどうした!」話を切り裂くように静子がパンチを打ってきた。

バン!と音がして、血と唾液がリングの上に飛び散った。

加奈の頬には拳がめり込んでいる。

 

だが加奈は倒れなかった。

本能の力で静子の顔面の位置を割り出すと、顔をへしゃげたままフックを打った。

「うっ!」静子は焦って後退し、フックをかわした。

加奈は口からマウスピースが飛び出そうになっていた。そしてその先端からは血と唾液が垂れる。

(おっと)

加奈はマウスピースを口に押し込んだ。

そして

加奈自信が感じた。

覚悟は完了した。